中国の今を知る、中国の未来を読む。

スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2006年09月25日

仕事について

 私は24才から今日までの22年間、ずっと中国と関わる仕事をしてきました。
 
 最初は福岡県職員として、県の対中国交流事業を担当してきました。今から思いを起こせば、22年前と今は福岡県を取り巻く国際的な環境は全然違うものでした。その頃は福岡県もようやく国際化の波に押されて、県の行政組織の中に国際交流課を設置し、国際交流事業に乗り出したのです。

 しかし、その頃の福岡県は、ハワイと姉妹県州関係を結んでいるだけで、中国を始めとするアジアにおける特定の地域と姉妹関係を結んでいる地域は一つもありませんでした。ですから、私は中国語のスペシャリストとして採用されたものの、その頃は、開設したばかりの中国総領事館とのやり取り、中国から受け入れている技術研修生の生活指導、そして、時折訪れられる知事への表敬訪問の通訳するのが私の主な仕事でした。

 悶々としていた1988年、九州大学に勤める夫のところに、文部省からアメリカのスタンフォード大学での在外研究の辞令が届きました。これから、日中間の仕事をするにしても欧米を知らなければ話しにならないと考えていた私は、県を辞職して、アメリカへ同行することを決意したのです。そして、二歳未満の長男と生まれたばかりの長女(お宮参りをようやく済ませて、首も据わっていない)を連れて、夫とともにアメリカへと旅立ち、ベビーケアに子供たちを預けながら、一分一秒の時間をも惜しんで、むさぼるようにアメリカの大学で語学と国際社会の動きについて学びました。
 
 90年に福岡に戻ってきますと、福岡県は中国との特定の地域と交流協定を結びたいと模索していた時期でだったために、私は時差ぼけなどをしている暇もなく、ただちに非常勤職員として再び県に引き戻されたのです。

~続く~          


※次回掲載は、10/2(月)を予定しております。
   


Posted by 青木麗子 Reiko Aoki at 10:00Comments(0)青木麗子の日々