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2006年11月06日

博多織のルーツを尋ねて

 この度、ご縁があって、博多織工業組合副理事長原田さんを始め、博多織工業組合の皆様とともに博多織のルーツを探し求めて、中国浙江省にある杭州市と寧波市を訪問した。限られた時間ではあったが、在福岡中国総領事と福岡県上海事務所の絶大なるご協力を得て、通常ではなかなか会えない研究家の方々と直に会って、お話を伺うことができ、また、立ち入り許されない場所にも入れさせていただいたお陰で、今まで解明されていなかった博多織にまつわる様々な謎が、次から次へと判明し、実に楽しくスリルのある調査訪問であった。

 中でも、私がもっとも興味深いと思ったのは、径山−興聖萬壽禅寺でお会いした地元の郷土史研究家−愉清源老人の話だった。愉老人がいわく、径山と日本との交流は悠久なる歴史を誇っているという。1199年(南宋慶元五年)に始まり、今日まで800年も続いている。そして長い日中交流の歴史の中で、日本が中国文化を大規模に吸収した時期は歴史上三回あったという。一回目は奈良時代(710‐793)・平安時代(794‐1184)前期、即ち中国の唐から宋にかけて。二回目は鎌倉時代(1185‐1333)中期から安土桃山時代(1573‐1603)にわたり、即ち中国の宋から元と明の初頭ころ。三回目は江戸時代(1604‐1867)前期、即ち中国の明の中・後期と清の初期まで。特に、二回目の鎌倉時代(1185-1333)中期から安土桃山時代までは、多くの日本留学曽が径山−興聖萬壽禅寺で修行を行ったというのだ。そこから、機織技術、お茶の栽培技術等などを日本に持ち帰ったらしい。それから、もっと私を感動させたのは、命の危険をまで冒してまで海を渡ってきた日本人僧侶の熱意に心打たれた中国側の僧侶達がついに、日本側の招きに応じて鑑真和尚が日本へ渡ることを決意したという話であった。これは、日中両国の政府指導者たちに大いに聞かせて上げたい話だと強く思った。



※次回掲載は、11/13(月)を予定しております。  


Posted by 青木麗子 Reiko Aoki at 10:00Comments(0)福岡とアジア