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2012年10月08日

鑑真和上ゆかりの地・奈良を尋ねて(3/3)


青木:
さてさて、話題は戻りますが、胡錦濤国家主席が奈良をご訪問された時に確か唐招提寺に行かれましたね。知事はその時にご案内をされたのでしょうか?

知事:
はい、ご案内させていだたきゆっくりお会いしました。

青木:
胡錦濤国家主席が多忙極まるスケジュールの中でなぜわざわざ奈良に来られたのでしょうか?

知事:
先ほどあなたもおっしゃったように、当時は小泉政権で政治がアメリカ寄りだったのです。日本の保守派が中国との関係を冷たくしたということもあって、その上、江沢民前主席と折り合いが悪かったです。そこで小泉さんの後に福田政権が誕生しました。福田総理は日中関係を重んじ平和的な考えをもった方でしたので、まずは日中関係の修復に乗り出しました。胡錦濤国家主席も同じ思いを持たれて、日本との歴史的な関係を強調するために、奈良の唐招提寺を訪問なされたのだと思いますね。

青木:
日本と中国との間には二千年に渡る交流の歴史があります。時には摩擦も生じることもありますが、しかし、長い歴史から見ればその時間は瞬きのようにほんの一瞬に過ぎません。鑑真和上は日本に渡ることを決意してから、11年の歳月がかかって、5度の失敗を乗り越えられた後に6回目にようやく日本に辿り着いたのです。そのようにして繋いでくださった両国の関係を我々は大切にしていかなければならないですね。唐招提寺訪問にはそのような思いがあられたのではないかと思いますね。

知事:
当時は日本から多くの留学生が中国大陸に渡りました。中国から来られた人は本当に少なかったですよ。裴世清が奈良の田舎に608年に小野妹子と一緒に答礼師として来られたという記述がありますが、当時の日本は辺境の地でしたので、本当に珍しかったと思います。それでも、来られたという事は日本が政治的な存在として認められた証でもあったのだと思います。鑑真和上は日本に仏教の戒律を伝えるために来たとありますが、キリストの宣教師が布教のためにきたのとは違って、鑑真さんは実際にどういう気持ちで来られたのかとても興味がありますね。

青木:
本当にそうですね。当時の日本は唐の人たちから見れば、どこにあるかも分からない小さな未開発の地で、しかも海を隔てているから、渡るにも命がけでしたからね。

知事:
本当にそうです。一つは言い伝えで残っていますが、当時、長屋王がいらして、その方は漢詩と歴史に精通した皇族で、長屋王が作られた「日本に来ていただき仏教を広め、天皇へ仏教の戒律を受戒していただきたい」との内容の漢詩が日本から中国大陸に渡った留学生を通じて鑑真和上に届けられ、その事が鑑真さんを突き動かす何か動機になったとあります。しかし、当時は行くと帰れない訳ですから相当の勇気と覚悟が必要だったと思いますね。

青木:
ところで奈良のどこを紐解いても中国との関わりが深いので、歴史のお話は尽きませんが、知事は中国との交流をどのように推進されたり、どのような事に尽力されていますか?

知事:
奈良県は中国との交流の歴史をとても大事にしています。これから東アジアが新しい時代に入る中で、「一衣帯水」と言われますが、長い歴史の中で東アジアを視野に入れてお付き合いしていきたいと思います。その為に、奈良で東アジアのお付き合いをする場を作ろうと、東アジア地方政府会合を提唱しました。今年で3回目を迎えます。地方政府会合ですので日本で言えば県とか市、中国で言えば省とか市など、東アジアの地方政府がマルチでお付き合いする場があればいいと思います。東アジアでお付き合いするとなると言葉の問題がありますが、ヨーロッパでも言語が多様な中で、フランス語、英語だけではなくEUなど多言語でやっているので、東アジアにおいても多様多種にうまく付き合う道を探ろうと試みをしています。

青木:
それはとても重要で大きな試みですね。恐らく、胡錦濤さんも限られた時間でもわざわざ奈良を訪れたのは知事と同じ思いがあられたんじゃないかと思いますね。これから日本と中国の平和な時代を作って行くためには、歴史の紐を解いて、精神的な交流と対話をすることがとても重要ですね。

知事:
奈良に来られて会見をさせていただいて隣に座っていただいて、食事の時にも1時間近くお話させていただきました。経済発展に関するやり取りの中で、沿岸地域と内陸の経済発展の話に触れましたら、陝西省の話を色々していただく等、本当に一つ一つに真面目に答えていただきました。

青木:
私も胡錦濤さんが39歳の時に日本をご訪問なされた際に通訳としてご案内をさせていただいたことがございます。その時に胡 錦濤さんはすごいオーラのある方でそして、とても誠実で真面目な方というのが第一印象でした。しかし、日本では、大変残念な事に胡錦濤さんのそういう一面のイメージが中々伝わっていませんね。

ところで、知事、まだまだお伺いしたいお話がたくさんありますけど、時間も参りましたので、今日はこの辺で。実に有意義なお話をたくさん聞かせてくださって、ありがとうございました。これからも是非、奈良という特別な存在を生かして、是非東アジアの平和と発展の為に、頑張っていただきたいと思います。
最後に、知事の座右の銘を教えてください。

知事:
「愚直であれ」人間は少し愚かな方がいいですね。特に今のように世の中が変わるときは辛抱を持って精神的な辛抱を支える方がいかと思っております。

 

奈良県は、日本の都道府県の一つで、本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中東部に位置する県。令制国の大和国の領域を占める。県庁所在地は奈良市。北西部の盆地地域を除き、険しい山々がそびえている。

面積:3,691.09km²     総人口:1,391,040



 

  


Posted by 青木麗子 Reiko Aoki at 10:00Comments(0)日本と中国

2012年10月01日

鑑真和上ゆかりの地・奈良を尋ねて(2/3)



青木:
奈良県と中国がこのように深い歴史的な繋がりを持っているということ、中国のみなさんは意外に知らない人も多いと思います。遷都1300年祭について、もう少し詳しくお話くださいませんか。

知事:
平城遷都1300年祭とは、日本の平城京、すなわち現在の奈良に都が遷都されてから1300年を迎えることを記念して、日本の歴史・文化がこれまで連綿と続いてきたことを“祝い、感謝する”お祭りでした。奈良に都が遷都されたのが710年でしたので、2010年がちょうど遷都1300年となったわけです。

青木:
なるほど、そうなんですね。ところで、平城遷都1300年祭に先立つ2008年に胡錦濤主席が日本を公式訪問された際、奈良県を訪問されておられますね。

知事:
はい、胡錦濤主席が当時の福田首相との会談のため訪日されるにあたり、訪問する地方がまだ決まっていないとお伺いしましたので、私が揚州市に行った際に、揚州市長の王燕文さんに胡錦濤主席に是非奈良にお越しいただきたいとの希望をお伝えしたところ、王燕文市長がすぐに北京に行ってくださり、本当に実現することとなったのです。

青木:
 そういえば、福田政権の前は、日中関係が非常に険悪な状態に陥っていましたね。
そのような状況をどうにかして打開したいという福田総理の思いが胡錦濤主席にも通じたのでしょうね。日中関係を改善する糸口は日中の長い交流の歴史の中にあるとお二人ともそう思われたのでしょうね。

知事:
そうだったと思いますね。揚州市も奈良と縁がとても深いところです。1300年前は聖武天皇が仏教徒に帰依されました。政権トップの天皇が受戒されるという大きな時代でありましたから、受戒のできる中国の高僧の来日を要請したことで、鑑真和尚が幾多の苦難を超えられた後に奈良に渡って来られた訳です。ご存知のように鑑真和上は揚州市の大明寺のご出身で、その縁で揚州市と奈良は今でも深いお付き合いをさせてもらっているのです。その事が胡錦濤国家主席の奈良訪問にも繋がったわけです。

青木:
胡錦濤さんも江蘇省のご出身でもありますから、とてもご縁を感じますね。

知事:
最近「遣隋使から見た風景、東アジアの視点」という本が出たのですが、その本を読んでとても面白いなと思ったのは、日本の聖徳太子と隋の煬帝の生まれた年代が5年違い、亡くなられた年代が4年違いで、同じ時代に煬帝がいて、聖徳太子がいたことです。煬帝と倭(日本)との交流を東アジアの視点から遣隋使小野妹子らを国際的な視点で日本の歴史を見ていることがとてもユニークだと思いました。当時の随の煬帝は北と南(揚州)を繋ぐ大運河を掘らしたのですが、その大運河は今も大事な水路として使われています。当時の煬帝は一生懸命やって悪評を全部引き受けて、後の唐の政治家は得をしたとも書いてあります。

青木:
そうですね、随煬帝は美女を求め船に乗って湘南の地を遊ぶ為に大運河を掘らしたとも今でも語り草となっているけれど、本当はそうではなかったですよね。大運河はいうまでもなく、昔も今も人と物を運ぶ大事な大動脈だったに違いありませんね。

知事:
その通りだと思いますね。随煬帝は優れた経済観念と国家経営の観念を持った方でした。一方、聖徳太子は国家経営よりも権力闘争に少し弱かったんじゃないでしょうか。信仰心が厚くて仏教に熱心であられた方でした。
当時は、日本の歴史の中でも大きな意味をもつ、法制度・律令国家と仏教を受け入れた時代です。唐の時代、韓半島を経た国際交流がなければ日本は文明の一つ橋を超えられなかったと思います。当時、漢字や仏教、お経が伝わったわけです。律令国家の元に、社会と政治のツールとして文字がないと国家組織が出来ないということで漢字が急速に受け入れられたのです。

青木:
鑑真和上と言えば、実は、数年ほど前に、日中関係があまりにも悪化し心を痛めていた私どもが、鑑真和上の強い信念と強靭な精神力を学ぶ為に、早稲田大学の木下教授、そして、先ほど言われました谷野元大使らと共に、日本の若者たちを連れて、大阪から鑑真号に乗って鑑真和上が日本に渡って来られた逆のルートを辿る旅をしました。中国に旅立つ前に、奈良にある唐招提寺を尋ねて鑑真和上が日本に渡ってきた当時の事等について研修しました。そして、中国に渡ってからは揚州市の大明寺はもとより、上海の復旦大学、杭州の浙江大学、江蘇省の南京大学、揚州大学などで交流を行い、若者達で日中両国の未来の事、日中両国の若者が共通して抱えている問題などについて討論しました。素晴らしい交流でしたよ。別れる時はもうすっかり様々な壁を乗り越え、みんなで抱き合って泣いていました。


<次週に続く...>
  


Posted by 青木麗子 Reiko Aoki at 10:00Comments(0)日本と中国