2007年12月03日
ロシアより中国大陸に思いを馳せて part6
ところで、サンクトペテルブルグは、ピョートル大帝が、ロシアの西欧化を目指して、
ヨーロッパに開かれる窓口として、1730年より35年間の歳月を費やして、人工によって創
られた都市だという。それまでのロシアの首都はモスクワにあったけれども、サンクトペ
テルブルグが出来てからは首都をモスクワよりサンクトペテルブルグに移したのだった。
当時、ロシアはスウェーデンを相手に北方戦争の真っ最中で、バルト海へ続くネヴア川の
河口は、格好の軍事拠点で、そこで、ピョートル大帝は、「ザーヤチイ島」と呼ばれる小
さな浮島に堡塁を設置させた。これがサンクトペテルブルグの発祥の地と言われるペトロ
ヴロフスク要塞の始まりだとも言われている。
エルミタージュ美術館、イサーク聖堂、血の上の教会、アレクサンドル・ネフスキー大
修道院、ビョートル宮殿、エカチェリーナ宮殿、血の上の教会などなど、いずれもロシア
帝政時代の財力の厚みと存在感を示すものであった。
※次回掲載は、12/10(月)を予定しております。
ヨーロッパに開かれる窓口として、1730年より35年間の歳月を費やして、人工によって創
られた都市だという。それまでのロシアの首都はモスクワにあったけれども、サンクトペ
テルブルグが出来てからは首都をモスクワよりサンクトペテルブルグに移したのだった。
当時、ロシアはスウェーデンを相手に北方戦争の真っ最中で、バルト海へ続くネヴア川の
河口は、格好の軍事拠点で、そこで、ピョートル大帝は、「ザーヤチイ島」と呼ばれる小
さな浮島に堡塁を設置させた。これがサンクトペテルブルグの発祥の地と言われるペトロ
ヴロフスク要塞の始まりだとも言われている。
エルミタージュ美術館、イサーク聖堂、血の上の教会、アレクサンドル・ネフスキー大
修道院、ビョートル宮殿、エカチェリーナ宮殿、血の上の教会などなど、いずれもロシア
帝政時代の財力の厚みと存在感を示すものであった。
※次回掲載は、12/10(月)を予定しております。
Posted by 青木麗子 Reiko Aoki at 10:00│Comments(0)
│青木麗子の日々
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